「そう思えない自分」を大切にしよう。

良い子ならこんな不満を抱かないはず

優秀な営業マンならもっと前向きな捉え方をするはず

「聞き分けの良い部下」なら愚痴を漏らさず、そんな事言ったって仕方ないじゃねーかと思わられるような事を言ったりせず、言われた事を淡々と実行するはず。

どんだけ嫌な態度をお客さんから取られてもニコニコしてるはず。

まめに訪問して色々と役に立つ事を提案するはず。

 

んな事出来ねーよ。なんでいつもこっちばっかり我慢しなきゃなんねーんだよ。そんな理想的な考え出来ねーよ。

という自分にまず、でっかいOKを出そう。

相手の不完全を受け止める勇気

相手の不完全なところ(失敗したり、準備が足りなかったり、思いやりが足りなかったり、言い方が悪かったり、自分の責任を振り返らず相手のせいにしようとしたり、課題の分離が出来ておらず介入しようとしてきたり)を変えようとするからこそ、なかなか上手くいかずなかなか気付かず変わろうとしないと、次第にイライラしてくる。なんであいつは〜と不満が溜まる。

 

相手が不完全であるが故に被る被害があるならなおさらの事だろう。

 

その時は、

・課題の分離

相手がより建設的な成長をしたいと感じるか、気付くか、しようと努力するかは相手の課題であって自分の課題ではない。だから、変わらずに今のままで居る事によって周りから人が離れていったり、誰からも相手にされなくなったとしても、それはその相手が引き受ける結末。

・被った被害について、自分が捉えている因果関係を明確に提示して請求しよう。例え「がめついやつ」と思われようが、「冷たいやつ」と思われようが、「うるさいやつ」と思われようが、「めんどくさいやつ」と思われようが、それを請求する事が、相手が反省するキッカケを作る事にもなるかもしれないのだから。

・請求する際にはアサーショナルな言い方に努める

・その時には「バトナ」を持とう。請求に応えられなかったとしても納得出来る妥協点を予め自分の中に用意しておく事で、しつこい言い掛かりや言い方が過激になったりせず、さっくり引くことが出来る。(例えば、自分の提示した因果関係を納得出来ないのであれば、そういう人とは付き合いたくないから、他の方と取り引きする事に変える。あるいはそもそも取り引き自体を諦める。など。それらを言った時に「卑怯」だとか「冷たい」だとか「厳しい」だとか色々な批判を相手はしてくる。何故なら自分の都合の良いような取り引きをしようとする人で、自分が自らを顧みようとしない人なのだから、何か要望が自分の思った通りの条件で満たされない時にするのは、自分の魅力を振り返ったりさらに改善したりする事ではなく、「いかに相手が悪いのか」批判する事などの嫌がらせによってなのだから。)

仕事へのやる気が上がらない言い訳としての、片付いていない。

目的論に出会ってから、今ひとつ自分の事でしっくりいっていない事がある。

それは仕事にどうもやる気、つまり「やりたいという気持ち」が湧いてこない時に

「それは先に仕事にヤル気を出さないとあらかじめ決めているのであって、何かがあってその為にやる気が起きないというのは間違いである」という分析について。

 

いやいやいや。確かにトランクの中や顧客との面談で使用するデモ器が散らかっていたり、会社から送られてくる資料が山のように積もっている様子を見て、ヤル気が上がらない、片付けなきゃなーと億劫になってなかなか取り掛かろうとしない、という事がある。

 

こればっかりは原因論なんじゃないか。そう思っていた。

 

けれど、今日片付けを進めてはっきり分かった。

 

片付ければ片付けるほど、やる気が無くなっていく自分をはっきりと認識した。

 

その自分はこう言っていた。

「片付いたら「やらなきゃいけなくなるじゃん」」と。

 

やりたくない、やらなくて良い、やる気が上がらない事の

「もっともらしい言い訳が無くなる」と言っていた。

 

ここでふと考えた。

散らかったままにしていたのは、もっともらしい理由として自分を納得させられる言い訳だったからなかなか片付けようとしなかったのか。

 

しかし待てよ。これじゃあ、もしも行く末誰かと同棲する事になり、

強制的に片付けさせられようものなら明らかに反抗するだろう。

 

だって目的があって散らかった状態にしているのに、

同棲相手のエゴで片付けさせられて、お礼すらも言われないとなると。

 

今回引きこもってここまで立て直して来た時のきっかけを思い出す。

「体調を整えたからと言ってすぐに仕事に行かなくても良い。」

「体調を万全の状態に保つ=仕事をしたがっている、仕事をしたい、楽しいと思っている、とは必ずしも限らない。」と自分と話していた。

 

そうすると基本的には自分は朝早くに起きて活動するのは嫌いじゃないし、

モーニングルーティーンをするのも好きだ。

けれど終わって仕事に行くとなるとめちゃめちゃ億劫に感じる。

 

片付けも好きだし、整頓された状態、埃や汚れを清掃して綺麗な状態にするのも

愛着が湧くというよりかは次使う時気持ち良いから掃除も好き。

 

ただ、だからと言ってそれらをする目的に「仕事の為ではない」というのを

明確に意識してからそれぞれに取り組むようになった。

 

仕事の為じゃねーし。

気持ち良く寝れる寝具に買い換えるのも、あくまで「気持ち良く寝れる為」であって

仕事への体調管理や集中力を維持する為とかじゃねーし。

というのがすんごいしっくりくる感覚。

引きこもり後の片付け欲求は末期かも?

引きこもって、どげんかして立て直さないと、と思って片付けしたくなったらいよいよかもしれん。

 

いよいよ、承認欲求のサインかも。

 

片付いていて、綺麗だね。とか

きっちりしてるね、とか、

自分のモチベーションマネジメントを把握、実行していて凄いね、とか

見習いたい、とか

 

を言って欲しいからやってんじゃなかろうか。

 

「片付いて無いからやる気が起きない」という見せ掛けの因果律、人生の嘘、によって原因論で考えているから

 

片付いてもやる気が上がらない、持続しなくて、なんで片付けしたのに…ってなるのが落ち。

「やる気」という幻想

ひろゆきが少し話してた。

「やる気」とかいう概念はまず無い。

「やる気というもの」があると世の中の人は思いがちなんですけど、そんなものは無いんですよね。

 

やるか、やらないか。

確かにそうかもしれない。

 

やりたいか、やりたくないか、

という気分はあれど、

結局はやるかやらないか。

 

やりたい、からやるか。

やりたい、けどやらないか。

 

やりたくない、けどやるか、

やりたくない、からやらないか。

 

その状態が続くか続かないか、が足されてやり続けるか、いつまでもやらないか。

 

いくら体調をプライベートで立て直したところで

根本原因としてのストレッサーと向き合わなければ堂々巡りを繰り返す。

 

仕事に行きたくねーなー。

お客さんに会いたくねーなー。

メール開きたくねーなー。

代理店のあの人と取り引きすんの嫌だなー。

 

っていうストレッサーを無くすか、居ない場所や環境に移るかしないと、また繰り返す。

 

そのストレッサーから受ける(正確にはその人がストレスを発信している訳ではなく、自分がその人の行動や発言、態度をストレスに感じるような捉え方をしているからストレスになる)ストレスに対しての反応をしているのだから。

 

その「反応」も何らかの目的、狙いがあってその反応になっているんだけど。

 

ストレッサーを無くす、そのストレッサーと付き合わなくて済む環境に移る、

の他にもある。

 

「自分の捉え方」を変える。だ。

 

相手を変えず、相手が居る環境も変えられない。そんな状況にも変えられるのは自分の捉え方。

 

嫌だなー。なんでそんな事言うんだろう。なんでそんな事してくるんだろう。と言った、「そんな事」や自分が嫌だなーと感じた「事」に対する自分の捉え方を変えるのだ。

 

それが認知行動療法のリフレーミング

 

ストレッサーや、環境のせい「だけにするのではなく」、自分の捉え方にもチャンスを見出す考え方。

 

重要なのは、自分の捉え方だけのせいにしてもいけないということ。

 

ストレッサーや環境、捉え方と複数のアプローチ手段があるという事、それらのバランスを程よく取って、「自分が望む」環境で適応してこうとするということ。