「反抗期」が起きるメカニズム

親による子どもへの課題の介入によって、

子ども自身が何をどうしたいかを尊重して貰えない状態が続くから起きる。

 

それは最初は文字通り「とにかく反抗すること」が目的となり、

俗に「イヤイヤ期」とも評される時期。

自分次第

最近つくづく思う。

 

「全ては自分次第だ」と。

 

相手が承認欲求を満たそうとマウンティングを取ってこようとした時、

自分がどういう態度で居るのか。

 

嫌なことをされて、いじめられて、妬まれて、羨ましがられて、お土産を要求されて、見下されて、蔑まれて、笑われて、馬鹿にされて、非難されて、誹謗中傷されて、不遜な態度を取られて、冷たい人だと、自分の事ばかりだと、責めてくる人ほど、自分に対して優しくして欲しいから非難して変わるべきだと言っているから自己中だと言える。

或いは自分に対してではなく、周りに感謝すべきだと言ってくる人も居るだろう。でもそれもやっぱり自己中。自分が感謝されたいから、良かれと思ってアドバイスしてくるのだ。自分が、何で教えてくれなかったんだ、冷たい人、酷い人だと批判されたくないから、自分がそう思われたくないからアドバイスしてくるケースもあるだろう。自分の価値観を押し付けてくる時点で「自己中」だろう。自分の価値観が正しいと相手に認めさせようと躍起になって、相手がどうしたいかどう生きたいかに耳を傾けようとはしないのだから。

 

自分に対してのメッセージとしてという事もあるかもしれない、つまり「自分だから」という場合もあるけど、単純にその人の機嫌が悪くて、勇気を挫かれて、余裕が無いからという事も考えられる。

 

そんな「自分は他人の為になる事を出来る良い人間です」風情の勘違い自己中野郎に、非難される、喧嘩売られる、価値観を押し付けられる、そいつの価値観に合わないからアドバイスされたり叱って来たりされる事に、いちいち従ってたらキリがない。

 

ここで自分が感じている事や思っている事を、自己開示してさらけだすか、飲み込んで合わせるか、「自分が」自分の行動を決めてるんだ。

 

言いにくい雰囲気」なんてもんは、相手も作ろうとしてる事もあるだろうけど、「そう感じる」かどうかは自分の主観が感じている事。

 

だから、結局は自分が自分の主観を元にどう判断して、「どう生きるか」なんだ。

 

その意味で、「他人のせい」にしてる限りは自分は生きづらいままだ。

適応力も上がらないし、その他人が自分の為に変わってくれるとも限らないし、嫌だなと自分が感じている限りはその場から距離を置きたくもなるだろう。

 

ご飯を食べに行くにも、行動しない限り得られない。

 

歩こう。自分の生きたい人生を行きたい方向へ。

ペットに癒されるとは

アドラー心理学によると、人間の究極の欲求は「所属の欲求」とされている。

 

それを満たす為に様々な手段をそれぞれの人が取っている。

 

ペットを飼う事についてふと考えてみた。

 

猫を撫でるのが大好きだけど、撫でている時に気持ち良さそうな表情だったり仕草、またゴロンとお腹を出してゴロゴロ言ってる様子を見ると堪らなく嬉しくなる。

 

それは、「この子の事を気持ち良く出来てる自分」に価値を感じられているなぁ、と思うし、

この子に「撫でて欲しい」と求められる事で「必要とされてる」という感覚を得られ、所属の欲求が満たされるからではないだろうか。

 

これと同じような考察に至ったのが、「子ども」について考えた時。

 

過干渉してしまう親の気持ち。

特に産まれたばかりの子どもは、親の介抱が無ければすぐに死んでしまう生物学的に圧倒的に弱い状態。

だからこそ親は、「私が居なきゃこの子は生きていけないんだ」と考えるだろう。

入り口はそうだとしても、親は「子離れ

」しなければならないだろう。

 

良い人、悪い人(酷い人)

「私、俺、僕の為に」頑張ってくれる人、優しくしてくれる人が「良い人」なのであって、人格者という意味合いでの絶対的な良い人という話では無い。

 

その人が、「その人自身の為に」頑張る事をわがままだったり、自由人だったりという言葉で非難する。時には「周りの人に感謝すべきだ」とも言ってきて、まるでこっちが感謝の気持ちを持ってないかのような「言い掛かり」を言ってくる事もしばしば。

そういう人ほど、

「この人はどれだけ自分にしてくれる人なのだろうか。」という事にし関心が無かったり、

「自分の価値観に沿う行動しか認められない、つまり他人に対して自分が褒めたり叱ったりという「指導する立場」に居たくてマウンティングを取ってきたり、やたらと上下関係を強調してきて自分が上なのだと、お前がどれだけ下なのかダメ出しをして分からせてやる」というマインドを持ってる。

承認欲求が高い人たち

周りが自分の事、自分がどう思われているかにしか関心が無い人「しか」生きていないから、感謝されたり、謝ったりされる事を期待してもしんどいだけ。

 

そういう人たちは、

人に助けを求める事=自分があなたの助けを必要な弱者ですと認めるということ

人に感謝する事=あなたの助けが無ければ自分には出来なかったと認める事

人に謝る事=自分が悪かった、自分が間違っていた、自分の非を認める事

というそれぞれの捉え方をするだろうから、自分の価値を低くするような感覚、マウンティングされるのを甘んじて受けるような事はしないし、出来ないだろう。

 

そういう人たちが生きてる世の中の大半を占めているから、それらの「報酬」を求める状態に陥るとしんどくなる。

 

じゃあ自分が「報酬が欲しくなる状態」とはどんな状態か。

 

自分が、自分のやりたい事をやらずに、指示に従わされてやりたいわけでも無い事をやってる時ほど、感謝や給与、地位や名誉、賞賛が欲しくなる。

 

「指示」だから、なぜそれをやる必要があるか考えたのは指示を出す人だし、「指示・命令」なのだから、それを受ける側がその内容に納得するかどうかは関係が無い。

つまり、業務命令や辞令、指示が頻繁にされる「従業員」という働き方自体がそもそも従業員側の納得感や自分で考える事、自律、自発、自主とはそぐわない働き方なのだろう。

だからよほど意識していない限り自然と「指示待ち」になっていく。

そうなると、どんどんと「自分がやりたいと思っているわけではないけど、やらなければならない事」が増えていき、その分「報酬」が欲しくなっていく、つまり承認欲求のライフスタイルが強くなっていくのかも。

 

自分に出来る事は、自分が、自分のやりたい事をやっていく人生を歩む事。というのが今の所思い付いているオプション。

 

報酬が欲しくなっている時ほど、

自分が自分のやりたいと思っているわけでは無い事を、つまり「やってあげてる」状態のある種のサインなのかもしれないなー。

「良い人で居続けるストレス」

ありのままの自分が感じた感情、思い浮かんだ思考。

 

それらを一切否定して、否定せずとも受け止めずに理想から引き算したり、理想の状態ではない「今の自分」にOKを出さずひたすらNGを出したり…

 

それは、ありのままの今の自分にどれだけ「しんどいこと」か、「いやなことか」「辛いこと」かを考えてみよう。

 

だって、「無視されている」のと同じなのだから。

 

今のありのままの自分がどう感じていようと、

「こうあるべきだ」「こうあらねばならない」「出来ていない事に変わりはない」

なんて、無視するのはやめようかな。

エゴの強い人からは距離を取る

・常に自分がどう見られているか気になる人

・自分のエゴを満たす為に他者を操作しようと躍起になってる人(怒り・非難批判・病弱)

・振り回す人

・自分が役に立ちたいからといって過干渉してくる人(ダメ出しをした上で自分のアドバイスを受け入れるよう圧をかけがち)

 


基本的に付き合う必要はない。

けれど、自分の目標達成の為に付き合わなければいけない(と自分が思い込んでいる)時はある。

その時の為にエネルギーを確保しておく、その時に備えて練習しておく、という事は大切な事かも。